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外観

霊妙寺

本堂と庫裏との2つのボックスから構成された都市型寺院。
鳥居をモチーフにした山門をくぐると円形に配されたガラスブロックが印象的な本堂が現れる。
高い天井から吊り下げられた仏具をガラスブロックを漉けた柔らかなひかりが照らす神聖な空間が意図されている。
(設計事務所:さくらデザインワークス)

寺院名由来

正式名称は八大山・霊妙寺。

山号の「八大山」は八大竜王をさす。

八大竜王は、天龍八部衆に所属する竜族の八王。
法華経の「序品 第一」に登場し、仏法を守護する。
霊鷲山にて十六羅漢を始め、諸天、諸菩薩と共に、水中の主である八大竜王も幾千万億の眷属の竜達とともに釈迦の教えに耳を傾けた。
釈迦は法華経の「観世音菩薩普門品 第二十五」に遺されているように「観音菩薩の御働き」を説いた。
その結果、「覚り」を超える「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)、無上正等正覚(むじょうしょうとうしょうがく)」を得て、護法の神となるに至った。

古代インドではナーガという半身半蛇の形であったが、中国や日本を経て今の竜の形になった。

八大竜王一覧

一般的に次の順に番号がふられている。

  1. 難陀(ナンダ)訳:歓喜。
    難陀と跋難陀は兄弟竜王で娑伽羅(サーガラ:大海)竜王と戦ったことがあった。
    『不空羂索神変真言経』第十六章「広博摩尼香王品」にて。
  2. 跋難陀(バツナンダ)訳:亜歓喜。
    難陀の弟。
    難陀竜王と共にマガダ国を保護して飢饉なからしめ、また釈迦如来の降生の時、雨を降らしてこれを灌ぎ、説法の会座に必ず参じ、釈迦仏入滅の後は永く仏法を守護した。
  3. 娑伽羅(シャカラ)訳:大海。
    龍宮の王。
    大海龍王。
    法華経「提婆達多品 第十二」に登場する八歳の龍女はこの龍王の第三王女で「善女(如)龍王」と呼ばれた。
    空海が新しく名付けることとなった清瀧権現も唐からついて来たこの娑伽羅龍王の同じ娘の事である。
  4. 和修吉(ワシュキツ)訳:宝。
    陽の極まりである「九」、数が極めて大きく強力であるという意で「九」を冠し九頭とされることもあった。
    よって「九頭龍王(くずりゅうおう)」、「九頭龍大神」等 呼ばれることが日本では多く、九頭一身と言われ考えられるようになった。
    元の伝説では千あることから「多頭龍王(たとうりゅうおう)」と呼ばれることも稀にあった。
    もともとは、須弥山を守り細龍を取って食していたという。
  5. 徳叉迦(トクシャカ)訳:多舌、視毒。
    この龍が怒って凝視された時、その人は息絶えるといわれる。
    身延鏡と金光明経から七面天女は、タクシャカ龍王の娘とされている。
  6. 阿那婆達多(アナバダッタ)訳:清涼、無熱悩。
    阿耨達(あのくだつ)龍王ともいう。
    ヒマラヤの北にあるという神話上の池、阿耨達池(無熱悩池)に住し、四方に大河を出して人間の住む大陸 閻浮提(えんぶだい、贍部洲 せんぶしゅう)を潤すと謳われた。
    800里にも及ぶ池の岸辺は金・銀などの四宝よりなっていたという。
    龍王は菩薩の化身として尊崇せられた。
  7. 摩那斯(マナシ)訳:大身、大力。
    阿修羅が海水をもって喜見城を侵したとき、身を踊らせて海水を押し戻したという。
  8. 優鉢羅(ウハッラ)訳:青蓮華(Utpala)、黛色蓮華池。
    青蓮華龍王。
    青蓮華を生ずる池に住まうという。
    インドでは花弁や葉などの形状を比喩的に眼を現すことに用いるが、特に青睡蓮は美しい眼に喩えられる。
    仏教では仏陀の眼は紺青色とされ、三十二相八十種好の一つ「眼色如紺青相」となっている。
    「青蓮華」は、漢訳仏典で「優鉢華」、「優鉢羅華」などと音写される。
    中国で「青蓮宇(セイレンウ)」は仏教寺院の別称。

寺院沿革・歴史

開基

上求院日化上人(所化名:松永行誓上人)

新潟県坂町・本伝寺の住職であった。
その後、後進に跡をゆずり、布教のため単身上京。
昭和初期、麻布霞町に霊妙講を創設された。
役員の坂本木平(もくへい)氏は元首相・田中角栄氏の夫人ハナ氏の実父である。
約80名程の信徒団体であり、主都布教に尽力され多くの信徒を教化・育成された。
昭和8年(1933年)、中野区の現住所に私財を投じて120坪程の土地を購入。
遷化の前日、役員一同に霊妙講に寄付する遺言を残し昭和8年(1933年)7月8日、病により49歳で遷化された。
僧階、僧都(※のちに宗務院より上人号を送られる)

二世

日伸聖人(所化名:田辺信行聖人)

御本山歴代。
上人は現在地に寺院を整備。
昭和10年(1935年)に霊妙教会を称し、信徒の結束に尽力された。
昭和19年(1944年)3月、大東亜戦争による東京大空襲により全山灰燼となり、聖人はやむなく御本尊・寺宝と共に総本山塔頭久成院へ難を移された。
その際、檀信徒の大半が離散した。

三世

浄信院日勤大德(所化名:村田歸一(きいち)氏)

昭和23年、離散した檀信徒に連絡を取り、総代橋本藤男、秋山よし両氏と協力。
篤信者の帰依、株式会社中央復興の尽力により当地に本堂再建を果たす。
昭和28年(1953年)2月、宗教法人・霊妙寺として寺号を公称した。
昭和34年(1959年)8月10日、68歳で遷化された。
僧階、僧都。

四世

如説心院日行上人(所化名:伊藤舜玄上人)

昭和34年(1959年)10月、住職就任。


大正10年(1921年)、東京に生まれる。
昭和11年(1936年)5月、大塚・善心寺、大森舜行師により得度。
昭和14年(1939年)3月、法華宗学林別科卒業。
昭和14年(1939年)4月、京北商業3年編入。
昭和17年(1942年)3月、上記校卒業。
昭和17年(1942年)9月、應召、南支転戦。
昭和22年(1947年)7月、復員。
昭和34年(1959年)10月、霊妙寺住職拝命。
昭和36年(1961年)、無縁塔建立。
昭和37年(1962年)、納骨堂建立。
昭和39年(1964年)1月、法華宗宗務院宗務主事拝命(2期6年)。
昭和39年(1964年)1月、関東教区管事拝命(5期15年)
昭和41年(1966年)、書道教室を開き近隣の人と学童に礼儀作法と書法を教える。
昭和54年(1979年)4月、権僧正に就任。
昭和54年(1979年)7月、庫裡の大改築。木造モルタル総二階建てを完成。寺院の整備が終わる。
寺院経営安定・信徒の増員等の功績を以て師僧日宣聖人より「中興の祖」の呼名を授かる。
昭和56年(1981年)10月、依願免霊妙寺住職。
昭和56年(1981年)11月、弟子隆静師に法灯を譲り後事を託し隠棲された。
平成23年(2011年)8月17日、90歳にて遷化される。
僧階、権僧正。

旧本堂

平成7年(1995年) 旧・霊妙寺 本堂

左上:旧・霊妙寺 山門    右上:旧・霊妙寺 納骨堂
左下:旧・霊妙寺 本堂正面

五世

伊藤隆静聖人

隆静

昭和56年(1981年)11月、住職に就任。

度重なる神田川の増水による水害への対策として、神田川拡幅工事が計画される。

平成8年(1996年)10月に寺域が拡幅区域に入るため、霊妙寺は建物すべて取り壊しとなり新たな寺域において新築された。

平成8年10月27日 霊妙寺新本堂落慶式 檀信徒と共に

先師よりの意をつぎ布教・教化活力に尽力している。

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