選手宣誓
どの宗派であっても法要をする際には最初に必ず「開経偈」を読みます。
私たち法華宗では訓読で読むので、文字を追うだけでも意味はなんとなく理解できるでしょうか。
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭いたてまつること難し。 我れ今見聞し受持することを得たり。 願わくは如来の第一義を解せん。 至極の大乗、思議すべからず、見聞触知、皆菩提に近づく。 能詮は報身。 所詮は法身。 色相の文字は、即ち是れ応身なり。 無量の功徳、皆是の経に集まれり。 是故に自在に、冥に薫じ密に益す。 有智無智、罪を滅し善を生ず。 若は信、若は謗、共に佛道を成ぜん。 三世の諸佛、甚深の妙典なり。 生生世世、値遇し頂戴せん。 |
それでもやはりちょっと難しいですよね。
これを一字一句追って訳すのは後回しにして、まずはフワッと解説にします。
文字が多いと気軽に読めなくなりますよね。
最近は文字数多かったのでちょっと反省(苦笑)
『開経偈』がどんな内容なのかを簡単に申し上げると、運動会の『選手宣誓』に近いのかなと思います。
「スポーツマンシップにのっとり、正々堂々戦うことを誓います!」というやつですね。
つまり「仏教徒精神にのっとり、心を込めてお経を読むことを誓います!」ということです。


以上。
フワッと解説でした。
・・・さすがにこれで解説終わりだと怒られてしまいますのでもう少し。
読みやすい言葉で要約してみます。
天文学的な時間の長さ
「この世の中の仕組みについて、また、ものの道理とは何かを十分に説いてあるのです。
この世にオギャーと生まれてきた人間が、苦しまずに安心した気持ちで過ごすにはどんな生き方をしたら良いのか。
どんな暮らし方をしたら良いのか。
どんな風に他人と付き合えば人と人とがぶつからずにすむのか。
あらゆる生活の方法について詳しく説明してあるのです。
こんな素晴らしいお経に巡り合うことは滅多にあることではありません。
どうか仏様、一生懸命読みますから、このお経の深い意味を教えてくださいませ。」
これで全体的な意味は伝わったでしょうか。
この開経偈の中で「こんな素晴らしいお経に巡り合うことは滅多にあることではありません。」と訳した部分。
ここは原文では「百千万劫にも遭いたてまつること難し」となっています。
「劫」というのは仏教が説く時間のうちで最も長い単位。
※ちなみに最も短いのが「刹那」です。
では一劫の長さとは?
以前法話でお話したことがあるのを覚えてらっしゃる方がいるかもしれませんが
一劫とは「天女が約3年に一回降りてきてその羽衣で上下四方40里(300km)の岩を撫でる。
それを繰り返して岩が擦り切れてなくなってもまだ終わらないほどの時間。」になります。
つまり、「百千万劫にも遭いたてまつること難し」とは
天文学的な時間をかけても巡り会うことはできないであろうほどの有難さ、素晴らしさを譬えていることになるのです。
他にも、このように「天文学的な時間をかけても巡り会うことはできないであろう」ことの有名な譬えがあります。
法華経第27章『妙荘厳王本事品 第二十七』の中でお釈迦様が弟子の阿難との会話の中で語られるたとえ話です。
盲亀浮木の縁

ある時、お釈迦様が阿難(あなん)という弟子に、
「そなたは人間に生まれたことをどのように思っているか」
と尋ねられました。
「大変喜んでおります」
と阿難が答えると、お釈迦さまはある譬え話をお話しになります。
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「果てしなく広がる海の底に、目の見えない亀がいる。
その盲亀が、百年に一度、海面に顔を出すのだ。
広い海には一本の丸太ん棒が浮いている。
丸太ん棒の真ん中には小さな穴がある。
その丸太ん棒は風のまにまに、西へ東へ、南へ北へと漂っているのだ。
阿難よ。
百年に一度、浮かび上がるこの亀が、浮かび上がった拍子に、丸太ん棒の穴にひょいと頭を入れることがあると思うか」

聞かれた阿難は驚いて、
「お釈迦さま、そんなことはとても考えられません」
と答えると、
「絶対にないと言い切れるか」。
お釈迦さまが念を押される。
「何億年かける何億年、何兆年かける何兆年の間には、ひょっと頭を入れることがあるかもしれませんが、無いと言ってもよいくらい難しいことです」
と阿難が答えると、
「ところが阿難よ、私たちが人間に生まれることは、この亀が、丸太ん棒の穴に首を入れることが有るよりも、難しいことなんだ。有り難いことなんだよ」
と教えられています。
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これを「盲亀浮木の縁」と呼びます。
人間として生まれてくること、お釈迦様と出会うこと、お釈迦様の教えにふれること、どれもが奇跡的に出会えたありがたいものであるのだ、と。
「有り難い」とは「有ることが難しい」ということで、めったにないことをいいます。そして、それだけ奇跡的な瞬間に出会えたことへの感謝を表す言葉となります。
「盲亀浮木の縁」は現在の「ありがとう」の語源と言われています。
出会いは億千万の胸騒ぎ
おまけの話し。
いまや「物事をするのに気が進まず、面倒くさい気持であること。」という意味の「億劫」。
これも元々は仏教用語です。

「人間に生まれる前の果てしない過去世」の長さを億劫(おくごう)といいます。
人間に生まれる前の果てしない過去世から比べると、今、生まれてから死ぬまでの人生はあっという間、瞬間的なもの。
仏の教えに触れることが出来るチャンスは、人間として生を受けた今しかないと説かれます。
億劫(おくごう) → 永遠に感じる長さ → しんどい → 億劫(おっくう)
現代語は意味が変わりすぎですね(苦笑)
このように、開経偈では「お経の有難さ」「お経と出会えたことの有難さ」が強調されていることがわかりました。
これで開経偈のしっかりした訳も理解しやすいかもしれません。
せっかくなので載せておきます。
開経偈を読むとき、頭の中で「こんなことが書かれているんだなぁ」とちょっと意識してみると、より有難さを感じられるかもしれません。
開経偈 全訳
「この上なく深い妙の御法である法華経には、はかり知れないほどの長いあいだ生きていても、出会うことはむずかしいのです。
しかし、私はいま、お釈迦さまがほんとうの心をあかされた真実の教えである法華経に出会い、お経の文字を見聞きし、受けたもつことができました。
どうか、お釈迦さまの説かれた第一のすぐれた教えを信じ習いきわめることができますよう、心から誓願いたします。
最高の大いなる法華経の教えを、私の小さな考えによって理解しようとするのではなく、法華経を見聞きし、お経の文字にすなおにふれて知ることが、そのまま、みなともにみ仏の悟りに近づく、と信じて法華経を読んでまいります。
法華経の教えを説かれているのは、限りない命をとこしえに輝かし、いっさいを救い導こうとされているお釈迦さまです。
法華経に説かれている教えは、すべての生きとし生けるものを仏にしようとされているお釈迦さまのお心です。
法華経にしるされているお経のひとつひとつの文字は、そのままお釈迦さまのお姿そのものです。
お釈迦さまが長い間積まれた、はかり知れない功徳は、みな、このお経に集まっております。
このゆえに、法華経を信じれば、おのずから香りに染まるように、法華経の功徳は私の体にしみついて、知らず知らずのうちに、まことの利益をもたらします。
智慧のある者も、智慧のない者も、これまでおかしてきたすべての罪をなくし、善を生ずることができます。
法華経を信ずる者も、そしる者も、この法華経の広大な功徳につつまれて、みなともに仏になる道を成しとげることができます。
過去・現在・未来の世の、もろもろのみ仏は、この法華経を悟って仏になられました。そのはかりしれない深い悟りの心が、妙なる法華経に示されております。
いくたび生まれかわっても、いつの世に生きようとも、このありがたい法華経にお会いし、おしいただいて信じつづけることを、心からお誓いします。」
最後に。
激動の2020年も残り一週間。
このブログに関しましては本年最後の投稿になります。
本年も皆さまには大変お世話になりました。
大変なことも多かった年でしたが、こうしてホームページやブログ、オンライン法要など新しいことにも挑戦できた年となりました。
それもこれも、挑戦したことに対して受け入れてくださる皆様の声があり、勇気付けられた結果だと思っております。
そこには本当に感謝の気持ちしかございません。
最後に改めてこの言葉で一年を締めたいと思います。
心の底より
「ありがとう(ございました)」
